週刊新潮 六月二十八日号
「石原良純の楽屋の窓
」
205回
宮崎へ行こか
頭を抑えつけるように、照りつける陽の光。
真っ青な大海原から押し寄せる波は”鬼の洗濯板”と呼ばれる奇岩の磯に白く砕け散る。
ロケで訪ねた南国・宮崎は、梅雨時とは思えぬ好天に恵まれた。
日南海岸を眺めて思い出したのは、家族旅行で初めて宮崎を訪れた時のこと。兄弟四人は、揃いの紺ブレザー。末弟の延啓の半ズボンは、おむつでプックリ膨らんでいたから、四十年近く前のことになる。
僕にとって、その旅行の一番の楽しみは初めて飛行機に乗ることだった。九州へ飛ぶのに当時は、大阪で一度乗り換えた。大阪まではジェット機で、そこから熊本へプロペラ機。おかげで僕は、一粒で二度おいしい飛行機旅行を楽しめた。
シートベルトをカチリと締めて緊張の初フライトは、ボーイング727。Gを感じながら大空へ舞い上がるのを、乗ったこともないジェットコースターのようだと、幼稚園児の僕は勝手に記憶した。
窓外でプロペラが轟音を立てて廻るYS―11の機内は、絶えず小刻みに振動していた。気流で飛行機が大きく揺れると、乗り物に弱い次弟の宏高がゲロゲロ状態。それは、どこの家族にも起きる、昭和の飛行機旅行の光景だった。
熊本に着いたら熊本城を巡って阿蘇観光へ。あいにくの霧で、あたりは真っ白。火口はおろか山肌一つ見えやしない。それでも兄の伸晃は、手にした絵はがきを眺め、一人だけ阿蘇観光を成立させていた。幼い頃から何事につけ気転の利く人だったわけだ。
祖母と母と四人の兄弟、楽しい家族旅行に親父の姿はない。”せっかくの休みにヨットのないところには現れない”と親父のルールは決まっていたから。
そんな親父と一緒に宮崎へ辿り着いたのは十年ほど前のこと。沖縄に回航してあった親父の愛艇”コンテッサ10世”に乗り込んで、那覇から三泊の行程で宮崎”日向を目指した。
梅雨の明けた沖縄・宜野湾マリーナから乗り出した真夏の海は、エメラルドグリーンに輝いている。珊瑚礁を避けて沖へ出た。沖縄本島を右手に眺め北北東へ針路を取る。本島が見えなくなる頃に航海初日の日が暮れた。
奄美諸島からトカラ列島へ島づたいに艇は九州を目指す。梅雨時の湿った空気に覆われた島々は、霞の中から突然姿を現すと、また消えてゆく。
時折、ゴーッと響く音は雷ではない。どこかの島の火口が噴煙を上げる音。トカラ列島の島々は、今も火を噴く活きた島なのだ。
二日目の夜は、トカラ列島・中之島の港に入る。港の横の共同浴場・天泊温泉の硫黄泉を楽しんだ。
梅雨前線を追うように北上する航海は、いたって穏やかなものだった。平たい種子島をゆっくりと眺めながら進めば、やがて九州本土が見えてくる。
夜半、都井岬沖に到達する。暗闇に唯一、光をともす灯台の灯りを目にすると、南の島から海を渡って来たという実感がひしひしと湧いて来た。
翌早朝、艇は日向港に入り、六十六時間、約五百マイルという僕にとって人生最長の航海は無事終了した。
さて、今回の宮崎行きは、『ドリーム・プレス社』(TBS系・金曜夜放送)での”東国原知事と行く宮崎PRの旅”。
観光立県を念頭に、自ら”県のPR大使”と称する知事に貴重な日曜日の休みの時間をいただいて、ともに楽しむ宮崎グルメのオンパレード。地鶏に始まり、宮崎牛に、海産物に、焼酎。もちろん噂の完熟マンゴーも豪勢にいただいて大満足の旅となった。
ただ残念なのは、知事も元は業界人。話はおもしろいが、オンエアできないネタが多かったこと。
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