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週刊新潮 三月二日号
「石原良純の楽屋の窓 」
140回
知事の椅子

 「俺がいい話をするから、それを纏めろ」
 親父の声が座談会の席に響いたのは、もう十七、八年も前のことだ。
 父・慎太郎は、同志と共に新派閥を旗揚げ。兄・伸晃はテレビ局勤務を辞して、衆院選に立候補を表明。 僕は、それまでお世話になっていた石原プロから新事務所へ移籍。ほぼ時を同じくしてブッ倒れたベルリンの壁と同じく、新時代への男三人の旅立ちを記念して、某誌が座談会のページをセットしてくれた。
 本来ならば、親子・兄弟の立場を越えて三人三様に自分の描く未来像を忌憚なくぶつけ合うところだが、当時の兄貴も僕も若かった。デンと真ん中に腰を落ろした親父の顔色ばかりを窺って、自分の思いを語れずにいた。
 いっこうに話が盛り上がらない座談会。兄貴と僕に業を煮やした親父は、最後はいつものように怒鳴り声を上げていた。
 慌てふためく編集者。好意を持って開いてくれた座談会なのに、逆に怒鳴られようとは。
 金曜夕方のMXテレビ“都知事定例会見”同様に、一度、熱く語りはじめた親父の話を遮るのは至難の業だ。結局、その日は座談会ならぬ、親父の独演会となってしまった。当然ながら、企画はボツ。
 先日、そんな親父と十数年ぶりに雑誌の対談をすることになった。
 親父に会いに庁舎へ行くのは二度目のことだ。前回もたしか番組ロケでのこと。僕は和田アキ子さん御一行を都庁へ案内する役目を担わされた覚えがある。
 番組としては、“勝手知ったるお父さんのオフィ〜ス”を闊歩する僕が狙いだったのだろうが、親父の仕事場に僕が足を運ぶことなど滅多にない。
 以前に親父の仕事場を訪ねたことといえば、小学一年の僕が母親に手を引かれ国会議事堂の長い廊下を歩いたような、歩かなかったような、朧げな記憶まで遡らねばならない。
 僕が思い浮かべる親父の仕事場といえば、逗子の家の親父の書斎だ。家の中で唯一、防音扉と防音サッシで守られた部屋は、夜は原稿書き、昼は寝る親父に静寂を提供する。
 部屋には逗子の入江を見下ろす窓に向かって畳一帖ほどの机が置かれ、その真ん中には、“石原用箋”と印された群青色のマス目の原稿用紙が積まれていた。 
 並ではない大きな机とネーム入りの原稿用紙を眺めると、父親の職業が物書きであることを子供ながらに僕は理解した。
 現在は机の真ん中にパソコンが置かれている。悪筆で名高かった親父は、一台が数十万円の大型機種の時代からワープロで原稿を書くようになったのだ。
 パソコンを中心にいろいろな物が散乱している。傍目には不法投棄現場のような光景も、親父にとっては使い易く、機能的な物の配置なのだそうだ。もちろん、家人が手を触れることはない。勝手に机の上をいじろうものなら、必ず大騒動になるから。
 今回は、この目で都知事の仕事場を確かめておこうと、知事応接室での対談後、初めて執務室に通してもらった。
 神棚と日章旗に見守られた執務室の机の上もやはり実家の机と同様に物で埋め尽くされていた。本当に機能的に物が配置されているかどうか、僕は知事の椅子に座って景色を眺める。
 なるほど、これが一千万都民を代表する知事の椅子か。クッションの堅さはまずまず……ウム、この机の上の物を万一、秘書が勝手に動かそうものなら、やはり怒鳴られるのか。
 さて、肝心の対談は、今回も親父の独壇場。
 それでも今の僕は、大丈夫。雑誌社から校正刷りがあがってきたなら、思いっきり赤エンピツを入れてやるから。

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