週刊新潮 四月六日号
「石原良純の楽屋の窓
」
145回
人、人、人、人。
僕の目の前を二万人の人が流れる。人の河は、思いのほか整然と静かに流れて行く。
先頭から最後尾まで長さ一キロもあろうかという群集は、誰ひとり無駄口を叩くことはない。二万人のゆっくりと深い息遣い、シューズが軽やかにアスファルトの路面を蹴る音は、サラサラと流れるせせらぎの水音のようにも聞こえる。
僕が立っているのは『第九回東京・荒川市民マラソン』のスタートゲート。都内最大のマラソンイベントを、僕は実況中継席から見守っていた。
天候・曇。気温・九度。スタート前に手足の先に冷たさを感じていても、走りはじめればすぐに体は暖まる。絶好のマラソン日和だ。
ただ一つ気になるのは風。早くも仮設テントや河原の木立を揺らしはじめた北風は、時が経つにつれて強まるという予報だ。
今回、マラソン番組(TBS系・五月三日放送予定)への出演依頼を受けた僕は、即座に断った。
だってフルマラソンを走るのは辛いもの。特に、過去フルマラソン二回完走の僕としては、走るとなればタイムの更新を狙わなければならないから。
初めて走ったのは、九七年のハワイ・コナマラソン。夜が明け切る前の早朝五時のスタートに合わせて目覚まし時計を午前三時にセットした。ところが、ビール一杯ひっかけて早目に入ったベッドの中、目覚まし時計が鳴り出すまで一睡も出来なかった。今となっては楽しい思い出だが。
四十二・一九五キロを自分の足で走るという未知との遭遇。期待と不安が入り交じり朝まで眠れないなんて、子供の頃の遠足の前夜のようだ。三十、四十の大人を眠れないほど興奮させるマラソンには不思議な魔力があるのだ。
僕は芸能界有数のマラソンランナー上岡龍太郎さんの助言を得て、一週間に五十キロ、二ヵ月に四百キロの練習を積んで初マラソンに臨んだ。タイムは、四時間四十八分で無事に完走。
初マラソンで五時間切れて誉められたのは、嬉しいような嬉しくないような。テレビで見るマラソンランナーのように早くは走れなくても、用足しを終えてブッシュの中から現われた白人女性や、パチパチ記念写真を撮りながら走るカップルランナーに置いてきぼりを喰ったのは悔しかった。
翌年も同じコースをキロ六分ペースの四時間十三分を目指した。でも、魔の三十五キロを過ぎる頃から、どうにも足が前に進まない。体の中のエネルギーは不思議とこのあたりで切れるように設計されているらしい。走った者にしか理解できない不思議な力がランナーの体に変調をもたらす。
マラソンでは、人それぞれに無数のドラマが生まれるものだ。自分では気がつかないうちに、体がビッショリ濡れている。沿道のギャラリーの力水を浴びたわけではない。全部が自分の汗なのだ。体の汗腺全てがぶっ壊れた蛇口のように汗を流し続ける。
揺れる頭から、ポトリと帽子が落ちた。脚は止められても振り向けない。今までと違う動きをした途端に、関節がバラバラになってしまいそうな恐怖心があるからだ。超スローモーションの巻き戻しテープのようにバックする。脚の筋肉一つひとつが破裂しないようにゆっくり足を屈め、ようやくキャップを収容した。
ゴール前の急坂では、足の節々が痛んで道を真っすぐに降りられやしない。坂道を蛇のようにクネクネ曲がりながら降りた。
荒川河川敷のスタートラインを横切る人の流れは二、三十分にも及んだ。誰もが期待と不安に胸を膨らませて歩みを進めているに違いない。
やっぱり、ランナーとして参加すべきだったかな。いやいや、司会進行役でよかった。でも、なぁ〜っ。
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