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週刊新潮 九月七日号
「石原良純の楽屋の窓 」
165回
夏の終わり

連日、最高気温三十度以上の真夏日。連夜、最低気温二十五度以上の熱帯夜。本格的な夏が、ようやく東京にやって来たのは、お盆を過ぎてからのことだ。
 今年の夏の暑さには迫力がない。ビルの頭の上に昇ったばかりの太陽が、いきなり日焼けした肌を突っつくこともなければ、早朝の街の空気が一瞬ピタリと動きを止めて、「今日も暑くなるぞ」と脅しをかけてくることもない。なんとも、しけた今年の夏。
 カレンダーを見れば、八月は今日で終わり。 六、七、八月を夏とするならば、今年の夏はパッとせぬまま終わってしまうということか。
 暦の上での夏は、立夏の五月六日から、立秋の前日の八月七日まで。
 小学生の頃、旅先から担任の先生に出す絵葉書は、立秋を過ぎたら“暑中見舞い”ではなく、“残暑見舞い”だと母親に諭された。
 子供の僕にとっては、夏休みは未だ半ば。これから、もっともっと夏を楽しみたいのに、何を大人は夏が終わったみたいなことを言うのだろう、と母親の言葉を訝しがったものだ。
 僕にとって夏の終わりといえば、コオロギの声だろうか。
 夏の日を一日遊んでシャワーを浴びて、仲間と賑やかに食事をとった帰り道、駐車場の片隅や電柱の足元の夏草の小さな茂みに虫の声を聞いた時、夜の空気がほんの少し涼しくなったことに気づく。
 タモリさんは、「博多の夏は祇園山笠に始まり、八月末の地元の神社の祭りで終わる」と言う。その土地に生きた名も無き人々を祀る小さなお祭りだそうだ。
 柴田理恵さんは、「九月一、二、三日のおわら風の盆が終わったら、夏も終わり」。賑わいの去った故郷を吹く涼風に、夏の終わりを見つけるという。
 京都の夏は、祇園祭から、八月十六日の大文字の送り火までと聞く。
 青森の夏は、八月二日のねぶた祭りの始まりから、八月七日のねぶた祭りの終わりまで。祭りの期間だけが夏というのも、みちのくの短い夏に相応しい。
 その土地の人々の暮らしに密着した祭りが、歳時記となるのは頷ける。
 小倉優子りんは、「セミが鳴き始めたら」と言う。
 なるほど、こりん星ではセミは秋に鳴くものなのかと思ったら、ゆうこりんの言うセミは、ヒグラシのことだった。こりん星の夏も、日本の夏も、大差ないようだ。
 安藤優子さんは、「自分の夏休みが終わったら」と笑う。子供の僕も、夏休みイコール夏と考えていた。
 木村太郎さんは、「風にコシが出てきたら」と。ヨット乗りならではの解釈。夏の風はビューッと吹いても一過性で、艇をグイグイ運ぶ力がないらしい。
 永島昭浩スポーツキャスターは、「汗でグッショリ濡れたTシャツ姿で、吹く風を冷たく感じたら」。
 西山喜久恵アナは、「犬の散歩で汗をかかなくなったら」。  
 高田純次さんは、「失恋したら、夏は終わりさ」、と大きく目を見開いたけど本当かな。
 オセロ松嶋尚美さんは、「渋谷から若者がいなくなったら」。
 ベッキーさんは、「ランドセルを背負った小学生を見たら」。
 若いお嬢さん方は、自然なんか相手にしなくても、自分の暮らす街の景色の中から、立派に季節を読み取っている。
 僕にも言わせてもらえるならば、日本の空は四季折々にいろいろな表情を見せてくれる。空の展覧会。ぜひ、渋谷のスクランブル交差点の真ん中ででもいいから、車にひかれぬ程度に、空を見上げて欲しいものだ。
♪今は もう秋 誰も いない海♪
 本当に夏は終わってしまうわけ。

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