週刊新潮 五月十七日号
「石原良純の楽屋の窓
」
200回
僕の「世界卓球2007」
僕が”卓球の愛ちゃん”こと、福原愛選手とダブルスを組む勇姿は、『豪腕!コーチング!!』(テレビ東京”二十一日夜放送)でのこと。
番組では世界ランキング十一位の日本のエース愛ちゃんがコーチする良純チームと、十六種類の王子サーブを打ち分ける福岡春菜選手率いるボビー”オロゴンチームが雌雄を決する。
また、この試合は二十一日からクロアチアの首都ザグレブで始まる「世界卓球2007」を盛り上げる壮行試合でもある。そして、「世界卓球2007」を生中継するテレビ東京で、僕はキャスターを務める。
僕と卓球の出会いは小学生時代に遡る。時あたかも、米中のピンポン外交が、世界をアッと言わせた頃。日本中のお茶の間では人民服でニッコリ笑う毛沢東とピンポンが、やたらと身近に感じられていた。
僕ら小学生は、教室で机をくっつけスリッパ卓球ならぬ下敷き卓球で遊ぶ。休みの日にも家のダイニングテーブルを卓球台にして兄弟でピンポン球を追った。
ネット代わりは親父の書斎の本棚に並んでいた文学全集。高さといい、ピンポン球がぶつかっても倒れぬ厚みといい、文学全集は卓球のネット代わりにもってこいだった。子供の僕は、文学全集が役立つことを卓球で初めて知った。
とある日曜日、僕らが下敷き卓球に興じていると突然、親父が帰宅した。そこは作家の家のこと、本を粗末に扱えない。本を枕代わりにしたり、跨ぐだけでも怒鳴られる。文学全集をネット代わりにしているのを見つかったら、とあたふた証拠隠滅を図ろうとしているところに、親父が部屋へ入ってきた。
兄弟四人は身をすくめ、「誰か説明しろよ」と視線が飛び交う。怒鳴られると覚悟した瞬間、意外なことに親父の表情が緩んだ。弟から下敷きを取り上げるとテーブルの片側に立ちピンポン大会に加わった。
ペロンペロンの下敷きでは、ボールをいくら叩いても、どうにも球は走らない。本格派志向の親父は、すぐにラケットを買いに家人をスポーツ用品店へと走らせた。それが、石原家の卓球ブームの始まりだった。
ピンポン球をテーブルにバウンドさせて、右手にぶら下げたラケットでたどたどしく打つ。それでも僕らは、日本代表気分。なにしろ当時の日本卓球界の実力は、中国をも遥かに凌ぐ、世界の頂点に君臨していた。外国勢を華麗な技で打ち負かす日本選手の姿は、すっかりお茶の間でもおなじみだった。
ラケットに少し慣れると、今度は狭いダイニングテーブルの卓球台に物足りなさを感じてくる。強い球がぶつかって、文学全集のネットが倒れるのも腹立たしい。その日の夕方、親父は、スポーツ店に卓球台を注文していた。
僕の卓球は、オーソドックスなトップスピン。コンコンと小気味良い音を立てフォアをクロスで打ち合うのが楽しみだった。
方や伸晃兄貴は、カットマン。シェイクハンドラケットを購入し、やたらと球に回転をかける。ねっとりとスピンを掛けられたボールを僕がネットするのを見ると、兄貴はニヤリと笑う。「正々堂々と打ち合えよ」と僕は内心腹を立てながら、ネットの向こうに球が飛ばないことが悔しくてならなかった。
残念ながら、そんな卓球ブームも兄弟それぞれの部活が忙しくなると下火になる。あれ以来、僕が真剣にラケットを握るのは三十余年ぶりのことだ。
聞けばボビーは、故国ナイジェリアではストリート”卓ッカー”として鳴らしていたらしい。
いいよ、いいよ、カットをかけておいでなさい。僕は兄貴で慣れているから。
僕の「世界卓球2007」は、愛ちゃんより一足先に始まる。
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