週刊新潮 九月六日号
「石原良純の楽屋の窓
」
214回
40・9度
八月十六日の埼玉”熊谷、岐阜”多治見の最高気温は40・9度。七十四年ぶりに、最高気温の日本記録を更新した。
一九三三年七月二十五日は、日本海にある低気圧に向かって、太平洋高気圧の縁を廻り込むように日本列島へ暖かく湿った南西風が吹き込んだ。山形では、盆地を取り囲む山々を吹き降りる風がフェーン現象で熱風となり、40・8度を記録した。当時の新聞は”荷馬車の馬が心臓麻痺でも起こしそうな酷熱ぶり”と街の様子を伝えている。
先の十六日も、太平洋高気圧から北海道付近にある低気圧や、前線に向かって南風が吹き込んだ。
しかし、関東平野各地に高温をもたらしたのはフェーン現象ならぬ、ヒートアイランド現象による都会生まれの熱風だった。
アスファルトにすっぽり覆われて冷えることのない大地。ビルや車の排気熱で都会の気温は、ぐんぐん上昇する。そんな熱の塊が海からの南風に乗って関東平野の内陸部へ流れ込む。
以前、”都会の熱気が上昇気流を生み、東京湾と相模湾と鹿島灘から湿った風を引きずり込んで都心型ゲリラ豪雨をもたらした”と書いたことがある。今回の日本最高気温もそれと同じく人災と言えよう。
七十四年ぶりの最高気温。でも、次に記録が更新されるのが七十四年後とは、僕には思えない。
地球温暖化を加速させる人間活動が続けば、日本のどこかで、41度を記録するのはそう遠い未来ではなかろう。
40度までしか目盛りを打っていなかった気温表示板を指差して、「想定外の出来事です」と苦笑いする熊谷市の職員のニュース映像が印象的だった。だが、いつまで僕らは、”想定外”と夏の暑さを笑っていられるのだろうか。
気象庁は今年から最高気温30度以上の”真夏日”より、一段階グレードアップした、35度以上の日を、”猛暑日”と規定した。しかし今や、40度以上の”酷暑日”を警戒しなければならない。
僕は、早朝ジョギングを半分で切り上げる。この暑さに不安を抱きながら走っているのは僕だけではあるまい。
日本テレビ『24時間テレビ』では、七〇キロマラソンに六十六歳の萩本欽一さんがチャレンジした。
フルマラソンを遥かに凌ぐ七〇キロ走は未知との遭遇。萩本さんにとって、それは正に決死の挑戦だったに違いない。
実際に、僕は熱射病に倒れたランナーを多摩川の河川敷で目の当たりにしたことがある。こちらも苦しい息の下、人だかりの中で抱きかかえられ介護を受けるランナーの顔を、僕はほんの一瞬だけ見て通り過ぎた。その顔は、「こんなに悪い顔色は見たことない」というほどの土気色だった。
後日、同じコースを巡ると死亡事故が起った旨の看板が立っていた。”たかがジョギング”と侮ってはいけない。真夏の炎天下のジョギングでは、死に至ることも珍しくないのだ。
十六日夜から十七日朝にかけて最低気温は、なんと30・5度。25度以下に気温が下がらない夜を”熱帯夜”と呼んでいるが、こんな夜は何と呼べばいいのだろう。
しかし、天は萩本さんに味方した。マラソン当日は、前線が関東地方を南下して曇り空となった。
『24時間テレビ』の企画の一つに参加していた僕は、小学一年生の少年の夢を叶えるべく、駿河湾で深海魚採りに励んでいた。
夕刻、海風が涼しい三保の松原で、萩本さんのゴールを待たずに僕らのコーナーは無事終了。皆で和やかに記念撮影をして僕らの夏祭りは終わった。
えっ、24時間マラソンを走ってみたいかって。とんでもない。地球温暖化の下、条件はどんどん悪くなるのですから。
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