週刊新潮 十一月十五日号
「石原良純の楽屋の窓
」
224回
秋の京都景色
生首を両脇に抱えてススキの河原を走るコツは、足をガニ股に開いて足先を地面から引っこ抜くようにヒョコヒョコ跳ねるように走ること。さもないと、袴の裾がススキの株に絡まって、凸凹な地面に足を取られて、ひっくり返ってしまう。
僕が短筒をブッ放し、晒し首にされた同志の首を、三条河原でカッ攫う物騒なシーンから撮影が始まったのは、来年一月から放映の『鞍馬天狗』(NHK・木曜夜)でのこと。
なにしろ僕は、野村萬斎さん扮する鞍馬天狗の盟友、桂小五郎なのだから、多少の危険には動じない。
実際に撮影が行われたのは、紅葉の名所、嵐山・渡月橋のほんの下流。京都の時代劇撮影は、観光客や人造物を避け、古都の佇まいを巧みに活かしてフレームの中に時代劇の空間を再現する。
この同じ河川敷で、僕は佐々木小次郎に斬られたことも、水戸御老公一行に手を振って別れを告げたこともある。
僕にとってほぼ十年振りとなる京都での時代劇撮影は、撮影所前のカレー屋がなくなっていた以外にいろんなことが変わっていた。
まずは、なんといっても丁髷カツラの技術が進歩していたこと。ハイビジョンの鮮明画像を見据えて、カツラは一段とリアリティを増していた。
頭皮中央を奇麗に削り上げて髷が乗るのは”御家人”浪人者の僕は、髪の手入れにお金をかけられないからボサボサ髪に髷が乗る”総髪”になる。
以前は、髪の生え際に薄らとカツラの毛を植える網が見えていた。でも、今のカツラは生え際の自前の毛をそのまま活かすので網はない。カツラを頭半分に乗せられても、カツラと地毛の境目は区別がつかない。テレビ画面やスチール写真で大写しにされても、まるで本物の丁髷姿と見まごうばかりだ。
しかし、困るのは自前の毛を使うから、勝手に床屋さんへ行けなくなってしまうこと。
なにしろ僕の髪の毛は、かなりきつめの天然パーマ。毛の長さが度を越すと、一本一本が思い思いの方向にカールをはじめ収拾がつかなくなる。
メークさんに無理矢理ドライヤーでまとめてもらっても、その髪型は、どこかサザエさん。
京都の晩秋の名物といえば、朝晩の冷え込み。
秋の陽が釣瓶落しにツルンと落ちた途端、夜気が身に凍みてくる。ロケ隊が暖をとるのは、一斗缶に廃材を入れて焚火と相場が決まっている。オレンジ色の炎に冷えた手をかざしていると、時折パチパチと火の粉が上がる。あまり炎に近づき過ぎると袴の裾が一斗缶に触れ、やがて自然発火して火傷騒ぎになりかねない。それが時代劇新人の一度は辿る道というものだった。
そんな一斗缶が、遠赤外線ヒーターに代わっていたのもショック。燃えカスの後始末が大変なのだとか。
片や、二酸化炭素放出に、片や電力消費。温暖化を考えると、どちらが地球に優しいのだろうか。
京都上空を通過する飛行機が、めっきり増えたのにも驚いた。京都は、東から西への航空路にあたることは知っていた。たしかに、僕も羽田から九州方面に向かう時、一万メートルの上空から京都の街を眺めることがある。
一般の人には気にならない飛行機の爆音でも、僕らロケ隊は撮影を中断しなければならない。幕末の街に飛行機の爆音はありえないから。京都でジェット機の音がうるさいと、文句を言っているのは僕らだけに違いない。
浪人姿の僕は、夕暮れ時の冷たい空を見上げ、遥か上空の飛行機が早く通り過ぎるのを祈っている。
これぞ晩秋、京都の撮影風景。やっぱり時代劇は楽しいね。
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