週刊新潮 二月十四日号
「石原良純の楽屋の窓
」
236回
トンネルの向こう
上越線土合駅は、新清水トンネル内にあるモグラ駅。地上の改札口に出るには、高低差が七一メートルある四八六段の階段を登らなければならない。
特急列車は、そんな土合駅のプラットホームをあっという間に駆け抜ける。車窓から眺める駅の景色は、蛍光灯の瞬きとしか思えない。車輪と線路の継ぎ目が奏でる小気味好いリズムに暫し耳を傾けていると、突然、真っ白な光の束が目の中に飛び込んで来る。
車窓に現れた景色は、正に、”国境の長いトンネルを抜けると雪国だった”の世界。今にも線路を埋め尽してしまいそうな雪壁の息苦しさに、列車はピーッと汽笛を一つ大きく鳴らす。すっぽり雪に埋もれた土樽駅を通過すると、列車は再びトンネルに駆け込む。
新松川トンネルは、地中で大きく弧を描く長くて緩い下り坂。坂を下り切りトンネルから顔を出せば、そこが越後の国。
信濃川の支流、魚野川に架かる緑色の長い鉄橋を渡る時、列車が立てる轟音が山々にこだまする。列車が雪国に到着の挨拶をしているようだ。
左右の山の斜面にはスキー場が点在する。
左手の『ルーデンス湯沢スキー場』は、その昔、『中里昭和スキー場』と呼ばれていたに違いない。そこは中学三年生の僕が、部活をさぼって初めて友達と出かけたスキー場。僕が見間違えるはずもない。
越後中里駅の改札を出たら、そこがもうゲレンデなのが『湯沢中里スキー場』。勢い良く山を滑り降りて来るスキーヤーが、まるで列車に飛び込んでくるように見える。
越後中里駅を通過した特急列車は、岩原スキー場の台地に行く手を阻まれて一八〇度ターンする。
岩原は、僕が生まれて初めて連れて行かれたスキー場。当時は、雪上車に乗り換えなければロッジに辿りつけなかった。雪国初体験の僕の唯一の記憶は、吹雪の中、雪上車に揺られたことだ。
大学生の兄・伸晃たちが屯する『岩原スキーロッヂ』に、高校生の僕もお世話になった。その頃の僕は、スキーよりも麻雀に入れ込んでいた。小洒落たバーカウンターのある麻雀ルームと、窓を開けると建て増しの廊下に出くわすスキーヤーズベッドが僕の青春の一ページ。寝台列車のように二段ベッドが整然と並ぶスキーヤーズベッドなど、もう日本中のスキー場のどこにも見当たらない。
岩原の山裾でUターンした列車は、もう一度大きく右カーブして、目的地、越後湯沢に到着する。
晴天の太平洋側から、雄大な越後山脈をくぐり抜けて、どんよりと雪雲に覆われる日本海側まで、上越線の特急『とき』で真冬の列車の旅が満喫できた。
今は越後路への旅は、上越新幹線にとって代わられた。所要時間は大幅に短縮されて一時間と少し。のんびり弁当を食べていると、コーヒーの車内販売に巡り合う前に着いてしまう。
ただ残念に思うのは、高崎を過ぎると列車があっという間にトンネルに入ってしまうこと。榛名トンネル、中山トンネル、そして大清水トンネル。三つのトンネルを抜ければ、何の前ぶれもなく越後湯沢の駅に着く。トンネルの出口から駅の防雪シェルターまではほんの数百メートル。駅に列車が滑り込みホームに降り立っても、雪国へやって来た実感が少しも湧きやしない。
便利さと引き換えに、列車の旅の魅力は大きく失われた。それでもロケには便利なのだから、僕が文句を言う筋合いはない。
『ドリーム・プレス社』(TBS系・金曜夜)の新潟ロケは、この時期としては珍しい晴天に恵まれた。一面の銀世界の向こうにそびえるのは八海山。僕は、帰りの列車で『八海山』を飲むことに決めた。
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