週刊新潮 四月十日号
「石原良純の楽屋の窓
」
244回
春風に誘われて
すべては身から出た錆。僕の花粉症は、ゴルフで一気に悪化した。
ドラマ収録で台詞をしゃべっても鼻が詰まっていて、思ったように声が出やしない。天気予報を報せれば、気づかぬうちに水っ洟が流れてくる。バラエティー番組で司会者から質問されても、耳管の奥が腫れぼったくて何を聞かれているのか分かりはしない。
生存の危機を感じるのは深夜のこと。その日に吸い込んだ花粉の量に比例して鼻水で息が詰まる。チュンチュン鼻をかみ続ければ、突然、掌が真っ赤に染まる。
花粉症で咳が止まらず寝不足の朝は、カゼの症状そっくりに体がダルい。体温計で熱を計ったら、きっと微熱があるに違いない。でも僕は、決して体温計は使わない。熱があると知ったら余計に気分が悪くなる。
花粉の季節は外出を避けること。でも、テレビのニュースが各地の桜の開花を告げ、春の柔らかな日射しに包まれた街並を眺めると、足が外へ出よう、外へ出ようと疼きはじめる。僕は危険を承知で、公園へジョギングに出かけてしまった。
大きなマスクにサングラスでのジョギングは楽ではない。吐いた息がマスクを膨らませ、サングラスのレンズを曇らせる。息を吸って、吐いて。レンズが曇って、晴れて。邪魔臭いったらありはしない。ダース・ベイダー姿の僕は、眉間に皺寄せ、不機嫌そうに見えるに違いない。
それでも僕は春のひとときを十二分に楽しんでいる。
額に薄ら汗が滲んで体が温まったら、ジョギングコースをはずれ、コンクリートにゴロリ寝転ぶ。桜の枝が優しい春風に揺れるのを見上げながらストレッチするのが、この世の幸せというものだ。
冬の間、冷たい北風に晒されて、すっかり縮こまってしまった体が、春風に誘われて息を吹き返す。春風は、僕にとっては”伸風”といったところ。
春の風は、人それぞれ思い描く春の情景にちなんで、いろいろな名前で呼ばれている。
”嬰児風”(えいじふう)とは、生まれたての赤ちゃんの肌のようにやわらかに吹く風。優しく穏やかな空気の流れは、”和風””協風””軽風”などとも呼ばれる。
”光風””暖風”は、春の日射しの明るさ、暖かさをそのまま伝える。
”穀風”は、植物を生長させる風。
”清風”は、草原や水面を優雅に吹き抜ける景色を想像させる。
ことに春の風と、桜の花は縁深い。
”桜東風”(さくらごち)は、桜の頃に吹く東風。”春の下風”は、満開の桜の枝下を吹き過ぎる風。やがて花を吹き散らす”花風”が吹くと、無数の花びらが宙に舞い、”花吹雪”が桜の季節のフィナーレを飾る。
日本海を北上する低気圧に向かって、強い南風が吹き込む”春嵐”。
砂塵を巻き上げながら激しく吹き起こるのが”春疾風”(はるはやて)。
だが、一番やっかいなのは”霾風”(ばいふう)に違いない。黄砂を降らせながら吹く大風は、天空を黄色に染める。
『霾』(つちふる)は、春の季語と、のんびりしている場合ではない。近年の花粉症被害は、黄砂とのダブルパンチ。微粒子の黄砂は、人間の呼吸器系に障害をもたらす。それ以上に心配なのが黄砂と共に飛来してくる汚染物質。
汚染物質には、移動するにつれて性質を変えるものもあるという。窒素酸化物や炭化水素は、空中を漂いながら紫外線を受け、光化学反応によりオゾンを作る。遠隔地でも、呼吸器疾患での死者を増加させるという。
花粉に、黄砂に、汚染物質。二十一世紀の花見は楽ではない。
それでも僕は、春風に誘われて走りだす。
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