週刊新潮 七月十七日
「石原良純の楽屋の窓
」
257回
サーファーの悩み
沖から寄せるウネリに目星を付けたら、砂浜に方向転換。波は思うより早く伝播するから、充分に間合いをとって早目にパドリングをスタートする。ボードがスピードに乗って波に追いつかれたと思った瞬間、うつぶせの姿勢からサッとボードに両手を突いてテークオフ。
僕が遂に、四十六歳にしてサーフィン初体験したのは、『VVV6 東京Vシュラン2』(フジテレビ系・木曜夜)の収録でのこと。
『ビッグ・ウェンズデー』なんて映画がヒットしたのは一九七八年、僕が高校二年生の時。サーフィンが加山雄三さんの若大将時代以来のブームとなった。
僕の友人の中にも、学校の授業前に先輩の車に乗っかり湘南まで繰り出す者もいた。その一方で、潮焼けと称して茶色く脱色した長い髪をなびかせて、ビーチサンダルで夜の六本木の街を闊歩する陸サーファーも大量発生した。
僕はといえば、湘南のサーフエリアの一画、逗子に実家がありながらボードに手を出すことはなかった。カリフォルニアからやって来た派手なトレンドに諸手を挙げて乗ることのない地道な高校生だったわけだ。
呼ばれた頃にスキューバダイビングをやっていたし、一本足で水上スキーを滑っていた。それでも、親父が波乗りしたという話は聞いたことがない。
我が家で一番初めにサーフィンをやったのは、末弟の延啓だ。葉山に住んでいた彼は、自室のすぐ前の海で波乗りしていた。
親父がやったことのないマリンスポーツをやりたいという想いが延啓にあったのだろう。僕も同じでウィンドサーフィンに凝っていた時期がある。
そんな延啓はある日、大きく跳ね上がったボードで頭をザックリ切った。マリンスポーツは大自然相手。派手なイメージのサーフィンがその実、危険で過酷なスポーツであることを僕は充分理解していた。
「いつかサーフィン」と思い続けていた僕をあっさりと越えていったのが伸晃兄。四十歳を超えた夏に、兄が突然サーフィンを始めた。兄の二番煎じはおもしろくない。波乗りが僕からまたちょっと遠退いた。
当時の兄は、行政改革担当大臣。忙しい公務の合間、深夜に海に出かけ早朝に海に入り朝には戻る。たまの休みに親父と僕がゴルフに誘っても、「ゴルフよりサーフィンの方がずっと気持がいい」と海へ出かけて行った。
緑のフェアウェーと真っ青な大海原を思い浮かべる。潮騒に、潮の香りに、肌を刺す陽射し、頬を撫でる潮風。たとえボールが真っ直ぐ飛んだとしても、海の爽快さにはかなわない。ゴルフを楽しみながらも親父と僕は、どこかで兄貴に置いてきぼりにされたような気がしていた。
ロケ当日、曇天の鎌倉・材木座海岸の波高は、ダブル・オーバー踝。踝の高さの二倍の五十センチ程度の波でも、初心者の僕にとっては強敵だ。
海に入る前、浜でたった五分間のインストラクターの講習は、とにかく素早く立つ。立ち上がらずボードの上に座るぐらいの低いポジションをキープする。半身の後ろ足はつま先立ちするのではなく、足裏の内側全体で体をささえること。
ジャバジャバと海へ入ってパドリング。ボードに跨がり波を待つ。なんとも心地よい。大きな波がやって来る。いざスタート。うまく乗れたかは……。
サーフィンを始めれば、人はまず、ゴルフをとるかサーフィンをとるか悩み、そして最後には、仕事をとるかサーフィンをとるか悩むそうだ。
サーファー良純の悩みは深い。
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