週刊新潮 七月三十一日
「石原良純の楽屋の窓
」
259回
真夏の夜の出来事
午後七時十分、速射連発花火スターマインが夜空を彩って、隅田川花火大会の幕は切って落される。
今から約三百年前、徳川八代将軍吉宗の治世。享保の大飢饉の犠牲者の慰霊と疫病退散を願って初めて花火が打ち上げられたと知ったのは、先日のクイズ番組でのこと。二十六日の花火大会の生中継番組にゲスト出演する僕は、きっと物知り顔でそんな蘊蓄を傾けるに違いない。
僕が花火大会と聞いて思い浮かべるのは、生まれ育った逗子の花火大会。
花火の日は、逗子の街も我が家も朝から騒がしかった。正午になると、逗子湾の中央に浮かぶ台船から景気付けに打ち上げられる空砲の音が街中に響く。
ジリジリと肌を焦がした夏の陽が、相模湾を隔てた伊豆半島沖に沈むと、ようやく潮風が涼しく感じられてくる。砂浜から人影が消え、ようやく水辺に静けさが戻る時間。
しかし、ひと夏に一度の花火の日だけは違う。空に闇が深まるほどに、砂浜は黒い人影で埋まっていく。
十万人以上の人が集まる海岸に比べれば、入江を見下ろす小山の中腹に位置する我が家は、花火見物の特等席だった。
だから花火の夜は、パーティーの夜。親父がヨット仲間を集めて真夏の夜を楽しんでいた。
昼時から母も祖母もお手伝いさんも、パーティーの料理の下ごしらえで大忙し。それでも誰もが笑顔でおむすびを握っていたのは、年に一度、裕次郎叔父がやって来る日でもあったから。
若いヨットのクルーは、氷を割り、ビールを冷やし、バーベキューの火をおこす。足手まといになりながら、そんな作業を手伝うのは子供の僕らも楽しかった。
ムームー姿の大人がグラス片手に踊るのを眺めるのは楽しかった。
食べて飲んで踊って、日がとっぷり暮れたところで、ようやく花火が始まる。ドンと一つ打っては、パンと一つ花開く。二時間近く延々と続く昔の花火大会は、随分とのんびりしていた。
夏の特別な夜ぐらい子供にも夜ふかしさせてくれればよさそうなものだが、花火大会半ばで子供の僕らは就寝時間を迎える。
江の島ジュニアヨットクラブ出身で一人前のクルー気取りの兄を除いた下の兄弟三人は、母親に尻を叩かれ子供部屋に追いやられた。ドン、ドンと響く花火の音の半分を、僕は毎年ベッドの中で聞いていたわけだ。
でも小心者の子供の僕は花火の音が苦手だった。特に花火玉が空気を切り裂き昇ってゆくヒューンという音が怖かった。
「戦争中、空襲では花火と同じ音を立てて爆弾が落ちてきた」祖母からそんな話を聞いたからに違いない。
海水浴場の真ん中から海へ突き出す海上ステージ。夏だけ開く砂浜に続く小さな遊園地。花火大会の夜に飛び出す戦争の話。昭和三十年代の『三丁目の夕日』の世界を記憶しない僕には、それが懐かしい昭和最古の景色でもある。
ウチの長男・良将も、花火の音を怖がるに違いない。幼稚園の盆踊り大会で、先生達が上げてくれた噴火花火に目を真ん丸くしていたぐらいだから。
良将を花火に負けない強い子に鍛えてやりたいところだが、仕事場の隅田川花火大会に連れて行くわけにはいかない。この夏も十三階の我が家のベランダからビール片手に、遥か向うの川崎の花火大会を眺めることになりそうだ。
でも、音のない花火って、何かねえ〜。
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