週刊新潮 十一月二十日
「石原良純の楽屋の窓
」
274回
七五三の手紙
「良将くん、そのうち、おうちゃんとふたりでよっとに乗りましょうね」
「まいちゃん、巴御前のような女性になって下さいね」
”おうちゃん”とは、祖父さん呼ばわりされたくない親父が考えた、祖父の呼称。長男・良将五歳、長女・舞子三歳に七五三のお祝いの手紙が届いた。
「ヨットに乗ろう」は、半ば親父の口グセでもある。
たまの休日に逗子の実家へ戻り、たまに親父と出くわすと、ヨットに乗りに行こうと必ず誘われる。だが、僕とグダグダ遊ぶのを楽しみにしている子供らを放っぽらかしにして、僕だけ海へ出かけるワケにいく筈がない。
すると親父は、さっさと独りでハーバーへ出かけて行く。”孫よりもヨット”が、親父の元気の秘訣のようだ。
子供の頃、兄弟四人の中からひとり指名されて、親父とふたりで海へ出かけるのは、楽しさ半分、恐さ半分だった。
家にいない。生活の時間が違う。顔を合わせても顰めっ面していて言葉も交わさない。そんな親父とふたりっきりの時間は、僕にとって決して居心地の良い時間ではなかった。
その上、大海原で波に揺られ、風に吹き晒され、潮を被ることは、子供にとって大いなる恐怖だった。
それでも大人しく海へついて行ったのは、海を恐がっている、と父や兄弟に思われたくなかったから。
ヨットハーバーでも親父は、誰かをつかまえては怒鳴りつけていた覚えがある。確かに、湘南のヨット文化の黎明期を築いた親父にとって、ハーバーをうろつく総ての人間が後輩にあたるのだろう。でも、親父の後ろにくっついている子供の僕は、「何もそんなに事を荒立てなくても」といつも顔を伏せて歩いていた。
狭いハーバーの水路には、入り艇、出艇がひしめき合う。僕らの艇の行く手を阻むディンギーに向って「スタボー」と親父がまた怒鳴り声を上げる。
ヨットは、セールの右舷側、スタボーサイドに風を受けて走る艇の進路が優先される。だから、僕が身を縮めて聞いた、この親父の怒鳴り声はルールにのっとっていたわけだった。
防波堤の突端をかわして湾に出た双胴艇のカタマランは、ひとたびセールに風を孕むと思いも寄らぬスピードで海面を突っ走る。逗子の入江を横切るのなど、瞬く間だ。艇首が波頭を叩いて、何回かおもいっきり顔にスプレーを浴びただけで、目の前に対岸の浪子不動の磯が迫ってくる。
このまま艇は乗り上げるのかと、カンバスシートの網を握る僕の手に力が入ったところで、親父が舵を切り、艇はタックする。しっかり掴んでいた風を解き放し、バタバタとはためくセールの音。次の風を捉えようとシートを引きしぼるウィンチの音。やがて艇首が向きを変えると、再びセールは風を捉え、艇は進み出した。
「お前もやってみるか」と、座り位置を入れ替わり舵を握らされる。
僕は親父から自転車の乗り方も、キャッチボールの球の投げ方も教えてもらった覚えがない。だけど、ヨットの操り方だけは確かに教わっていたわけだ。
そんな親父と良将が、ふたりで艇に乗るのは来年の夏か、再来年の夏か。
いずれにせよ、碑文谷公園の手漕ぎボートにしか乗ったことのない良将にとって、大冒険になるのは間違いない。
良将への海への誘いは、大変ありがたいことだが、舞ちゃんへ”巴御前のような女性になって”というのはどうなのだろうか。
巴御前と言えば、才媛な美女には違いなかったのだろうが、やたらと気が強いイメージありませんか。旦那の義仲もあんな死に方したし。いいのかな。
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