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週刊新潮 一月十五日号
「石原良純の楽屋の窓 」
281回
今年は、のぞみ

 ズラリと並ぶ新幹線の先頭車両。真横から眺めると、そのフォルムの美しさに改めて感動する。
 車両前方に佇む人影は、車掌さんではない。黄色いヘルメット片手に、アロハシャツの上からオレンジ蛍光色の安全帯を巻いた、イケてない僕。
 前年の思い出の一枚を新年の年賀状に使うようになって、今年で十六年。二〇〇九年版には、真夏の新幹線大井車両基地のスナップを選んだ。
 車両基地に足を踏み入れ、ズラリと並ぶ大好物の新幹線を見た瞬間、今年はこれと決めていた。でも、ロケ中のプライベート写真の撮影は、スタッフやJR東海の広報さんの手前、憚られる。不似合いな安全帯を外す暇もなく、マネージャーにデジカメのシャッターを押してもらった。
 日焼けした黒い顔がよく見えなくても構わない。自分の年賀状に、他人のワンショット写真を使う者などいようはずもないのだから。
 滅多にお目にかかれない風景や世界の絶景を年賀状に載せ紹介したいと思いたったのは、十六年前のウルグアイ行に始まる。
 ウルグアイといえば、日本からヨーロッパ経由でもアメリカ経由でも、オーストラリア経由でも同じだけ時間がかかる地球の裏側。
 ラプラタ河の河口に位置するプンタ・デル・エステは南米随一のリゾート地と言われている。農産物交渉の国際会議、ウルグアイ・ラウンドの舞台だ。
 南米最大のイグアスの滝へも通じる大河の河口は幅二百キロ。水平線の彼方に対岸のアルゼンチンを望めようもない。
 南半球の十一月は、春。柔らかな日射しに揺らめく広大な川面を眺め、その昔、ドイツのポケット戦艦『グラフ・シュペー』とイギリス巡洋艦隊との死闘に想いを馳せるのは、小学生の僕がプラモデル・マニアだったから。
 岬の断崖に建つ大邸宅のベランダでもの思いにふけるのは、二度とあり得ぬ時間。めんどうくさがりの僕も、自分の姿をきっちりと記念にファインダーに収めてもらい、一九九四年の年賀状に使った。
 写真の縦横の比率が1:2なのは、映画のワイドスクリーンをイメージしてのこと。当然、写真を撮る時からトリミングを意識して構図を決める。おのずと風景写真は引き絵となり、人物は小さくなる。
 一九九八年の年賀状で、アメリカ・オクラホマ州の草原に立ち空を見上げる僕はカメラに背を向けている。三百六十度、地平線まで続く大平原の上空を数匹の子犬がジャレあって円を描くように駆け廻る雲は、竜巻の子供。日本の国土の十倍、中西部大平原”グレートプレーンズに巨大竜巻”トルネードを追った思い出の一枚だ。
 高山病で苦しんだキリマンジャロ山行も、二〇〇二年の年賀状となった。
 無事登頂を終えた帰り道、酸素が充分に満ちてきた高度三千メートル付近が、この山の森林限界。手前の森の線と茶色い山肌に刻まれた登山道。その遥か向うに、頭に氷河の帽子を被った主峰が顔を覗かせる。他の登山者のいないタイミングを見計らい写真を撮ってもらった。
 氷河が連なる山々を背景に、セーフと僕が両腕を大きく拡げているのは、二〇〇五年のアイスランド。大地の裂け目の島で、僕は右腕で北アメリカプレート、左腕でユーラシアプレートを繋ぎとめようとしていた。
 昨年は、海外ロケはなかったが、僕は”のぞみ”の写真で大満足。だが、一つだけ問題がある。
 あの日のロケ、電車好きの長男・良将だけ連れていき、長女・舞子はお留守番。それを彼女は、未だに根にもっている。
 あの年賀状を見たら、また舞子の機嫌が悪くなるに違いない。

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