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週刊新潮 二月二十六日号
「石原良純の楽屋の窓 」
287回
小島の技

 山陽路には港がある。対岸の四国へ向うフェリーや、瀬戸内の小島へ向う水上バスが慌しく出入りしている。
 僕も広島県の竹原港から大崎下島を目指して水上バスに乗り込んだ。日に六往復の定期船は、途中、大崎上島の幾つかの港に寄ってから、小一時間で目的地まで運んでくれる。
 上部デッキに出て島影が幾重にも折り重なる瀬戸内の景色を眺めれば、島々の斜面には一面みかん畑が広がっている。収穫期を迎えた無数の果実が、春の眩しい陽の光にオレンジ色に輝く様を眺めれば、どこか気持ちがワクワクしてくる。
 でも、頬に当たる海風はまだまだ冷たい。春は暖かさよりも、”光の春”から始まる。
 船は、真っ平らな水面に、島影に沿って白い航跡を刻んでゆく。
 船舶が強力なエンジンを搭載する以前は、潮の流れが速く、風向きも複雑で、無数の岩礁が潜む瀬戸内海は航海の難所だったに違いない。
 瀬戸内海を地図上に追えば、播磨灘、水島灘、備後灘、燧灘、斎灘、安芸灘、伊予灘、周防灘と、東から西へ難所が並んでいる。
 僕が目指した大崎下島の御手洗は、そんな瀬戸内海を往く船が潮待ち、風待ちのため立ち寄った、交通の要衝だった。
 入江には常時、五十隻も百隻も船が並んでいた。今は歴史の流れから置いてきぼりにされたように、ひっそりとした佇まいの街には、最盛期、四軒の妓楼に百人もの遊女がいたという。オランダ商館員も琉球使節も参勤交代の大名も、皆、この港を利用した。
 この街には日本に時計メーカーが誕生する以前から外国の時計修理をしてきたという、日本最古の時計屋さんが存在する。
『お墨付き!!にっぽん遺産』(フジテレビ系・二十二日夕方放送)は、日本の伝統の技や物をクローズアップする番組。僕は日本最古の時計屋さん『新光時計店』を訪ねて海を渡った。
 島の東端に位置する御手洗地区には、坂本龍馬や吉田松陰が立ち寄ったとされる船宿が今も軒を連ねる。新光時計店は、どこか懐かしさを覚える昭和の時計屋さんの姿で、歴史ある街並の景観に溶け込んでいる。
 通りに面した大きなガラスから中を覗き込むと、目の前にどんな時計でも甦らせてくれる松浦敬一さんの仕事机が置かれていた。ミリに満たない細かい時計部品を扱う作業には、電球の光よりも乱反射しない自然光が最適なのだそうだ。
 ガラガラと引き戸を開けて入った店内には、時計と一緒に商品の眼鏡が並んでいる。「昔から時計問屋は、眼鏡問屋を兼ねることが多い」と聞いて、謎が一つ解けた。
 店内には新品と同じ数ほど、修理の順番を待つ時計が並んでいる。新築祝い、入学祝い、入社祝い、誕生祝い。人生の節目に手にした思い出の時計に再び時を刻んでもらいたい、という願いを込めて全国から送られてくるのだ。
 なかには、修理に出すより新品を買った方がずっとお得なのでは、と思えるような時計もある。依頼者にとっては、何物にもかえがたい逸品なのだろう。
 松浦さんは有名ブランドの自社修理工場が見放した時計を修理する時には、細かな部品を自作することもある。四代・百四十年間、培われた技術で時計の一つひとつに新たな生命を吹き込んでいる。
「可能ならば、より最善を求めよ。そしてそれは、常に可能である」
 松浦さんは、スイスの天才時計師ジャン-マルク・ヴァシュロンの言葉をいつも胸に刻んでいるという。
 瀬戸内海の小島に息づく伝統技術。やはり日本はいいなあ〜、と日本再発見の旅。去年、島と本土を結ぶ橋が開通したと聞いて、またびっくり。帰りは車。

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