週刊新潮 三月五日号
「石原良純の楽屋の窓
」
288回
我が師の恩
体重一五四センチ。身長四六・七キロ。
プロフィールをのっけから書き間違えているのは、僕の小学校卒業文集。
尊敬する人は、”祖父、父、城本竜馬”。最後の人物に心当たりはない。
たしかに小学生の僕は、国語が苦手だった。作文を書けば、”いたしまつた”。”つ”と”し”、”ま”と”も”を間違う。誤字脱字を、恥とも思わなかったようだ。
そんな懐かしくも、恥ずかしい文章が登場したのは『熱血!平成教育学院』(フジテレビ系)でのこと。初の二時間スペシャルでは、レギュラー解答者の通信簿や学校にまつわる思い出の品が出展された。
渾名は、”残し男”と記されている。偏食児童の僕は給食が食べられず、毎昼休みを教卓の前の席に居残りさせられていた。
”クソ純”とは、失礼なネーミングだ。クラスの顔役に目をつけられ流布された渾名はクラスに根付きはしなかった。
それでも卒業文集に書き残したくらいだから、その名を口にしていたクラスメートもいたのだろう。子供の僕は、立派に鈍感力を備えていたようだ。
”高見山”と呼んでいたのは、担任の桑原三郎先生ひとりだった。新聞記事に載った入門して間もない頃の高見山の眉や目鼻立ちが、僕に似ていると喜んで付けられた。
僕が通った小学校、慶應義塾幼稚舎では、六年間担任が替わらない。担任との相性は、子供一人ひとりに大きな影響を与える。その点、僕は先生によくして頂いたと思っている。たしかに、同級生と酒を飲めば「お前は、可愛がられていたから」と言われる。
「僕は子供は苦手だ。福沢諭吉という人物に出会わなければ教職につくことはなかった」。先生がそんなことを仰っていた記憶がある。
だから、先生の教えの基本は”独立自尊”。
僕ら何人かがクラスメートの一人に配布されたキャラバンシューズを持たせたことがあった。彼が重たいシューズを幾つも抱え、泣いているところを先生に見つかった。
翌日の学級相談会で、持たせた僕らは、もちろん、こっぴどく叱られた。そして、持つことを断らなかった友達も叱られた。
”断る勇気”。先生が黒板に書かれた言葉を、今も忘れない。
児童文学を専攻されていたという先生は、国語のエキスパート。低学年から、『古事記』の難しい文章のプリントを読まされた。それでも、難しい名前の神々が次々に登場する物語を読むのは、結構、楽しいものだった。
先生は、僕らが大学を卒業すると同時に幼稚舎を去られ、女子大の児童文学の教授になられた。講師として慶應大学で教鞭をとられたのは、僕らがいる間は単位を取らせてあげようとの配慮だったと聞く。
桑原学級のトレードマークといえばカエルだった。
宿題や日記の成果はおたまじゃくしの判子の数で判定される。
おたまじゃくしが、十匹たまると前足が生える。前足おたまじゃくしが十匹たまるとカエルの判子がもらえた。
小学校三年生の夏休みの宿題が、「将棋を覚えてくる」だったのも忘れ得ぬ思い出だ。新学期のトーナメント戦で活躍して以来、将棋は、僕の趣味の一つとなった。
先生と最後にお会いしたのは、約六年前の僕の結婚式。先生は、スピーチで卒業文集の中から、僕の作文”残し男”を会場の皆さんに披露された。雛壇の僕は、三十年ぶりに先生の授業を受ける思いで、背筋を伸ばして聞いた。
その桑原先生が、先月お亡くなりになった。生前に先生が希望された家族四人だけの密葬は、いかにも先生らしく思える。
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