週刊新潮 四月九日号
「石原良純の楽屋の窓
」
293回
卒業してから二十五年
「石原が卒業できたのは、僕のおかげだよ」たまに学校に顔を出せば、休んだ講義のノートが集まってくる。在学中から『西部警察』に勤務していた僕は、たしかに多くの友人の善意に支えられて卒業できた。
「経済原論のノート貸したの覚えている。なんでノートを借りた石原がAで、ノートを貸した僕がBだったんだよ」怨み事を洩らすのは、経済学部O組のクラスメート。
「石原がクイズ番組に出ているの観ているよ」彼はたしか『アメリカ横断ウルトラクイズ』で大陸へ渡ったはず。一般視聴者参加のクイズ番組が減ってしまったことを嘆いていた。
「『ブラックバラエティ』はひどい、熱いおでん食べさせられていて……」僕の可哀想な身の上を、僕に代わって憤ってくれるゼミ仲間は有難い。
「高校で席が隣りだったの覚えている」ウ〜ム、覚えているような、いないような。三十年も昔の教室の記憶は、春の青空のようにどこか霞んでいる。
「オレ! オレ!」軟式野球部だった彼のことは、はっきり覚えている。高三の期末試験は、出席番号の巡り合わせで彼と隣り合わせ。試験官の目を盗んで、机の下で教科書を開く彼の姿は、豪快だった。
「石原、イッキ早かったよな」早慶戦の夜、勝っても負けても繰り出したビヤホールの銀座ライオンでのスキーサークル対抗イッキ戦。大ジョッキのイッキは、ジョッキの底が見えてからが辛い。向う端の壁が見えてきても、なかなか手の届かないプール潜水のようだったのを思い出す。
三月二十二日、『東京・ホテルニューオータニ』の鶴の間で、”125三田会”の大同窓会が催された。
昭和五十九年三月の全学部卒業生六千名のうち、千二百名がこの夜、集結した。同級生、ゼミ仲間、スキークラブの仲間。さらに内部進学の僕は、小、中、高校時代の同級生と再会した。
宴会場フロアーに溢れる人波の総ての顔を識別できるはずもない。それでも大教室や学生食堂や日吉の駅のホームや、どこかで同じ時間を過した人達。他人だけど他人ではない。そんな人間ばかり千二百人に囲まれるというのは、初めて味わう不思議な感覚だった。
「写メ、一緒にいい」と声をかけられる。僕と同じ年格好の男の笑顔が。「職場で見せる証拠写真に」「妻に言われてきたから」「娘がファンだから」と短く交わす言葉に、各々が過してきた卒業からの二十五年の歳月を垣間見る。
名刺の交換といきたいが、僕は名刺を持って歩かない。一方的に名刺を頂戴すると、金融、証券、商社、メーカー、サービスとあらゆる分野の社名が並ぶ。中には僕の大切なお取引先、テレビ局や制作会社の名刺もある。これを機に、一段のお引き立てを願ったのは言うまでもない。
アトラクションに現役生のチアリーディング部が登場し、会場を盛り上げる。
そこで僕は、皆の視線と僕の視線の微妙な相違点に気がついた。中へ入って一緒に踊ったら、などと考えるのは僕だけに違いない。エンターテインメントの世界に年齢は関係ない。僕は舞台上の彼女らと五分で楽しむ自信がある。ヘンな自信の分だけ、良く言えば若々しく、悪く言えば進歩なく、僕はいられるのかも。
会の最後に、御指名で僕と紺野美沙子さんが閉会の辞を述べることになった。
僕の頭に浮かんだのは、先日、発売された僕のデビュー作『凶弾』のDVDに収められていた、僕を鼓舞してくれた裕次郎叔父のメッセージ。
”君の武器は二十歳の若さとファイトだ。全力投球で青春の一頁をかざれ”
僕の青春は、今もずっと続いている。このまま二十五年後、今度は卒業五十年でお会いしましょう。
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